聲の形
初っぱなからアニメ映画の話をしようと思います。
今回取り上げさせてもらうのは「聲の形」です。
制作はあの京都アニメーションですね。中学の頃は「涼宮ハルヒ~」や「らき☆すた」、「CLANNAD」などに夢中になったものです。今の子は「free」や「境界の彼方」などの方がイメージとしては強いのでしょうか。私はいずれも未視聴なのですが。
「君の名は」の大ヒットでアニメ特需的な現象が起こっているのでしょうか。私が赴いた劇場では、半分が中年のおじさんやおばさん、もう半分は若いカップル達といった具合でした。率直な感想を申しますと、アニメに縁がなさそうな中年層や、いわゆる「リア充」に分類されるあろう若者達が、多くを占めていることに驚きを隠せませんでした。
あらすじなんかを書くと、それだけで大分辟易してしまいますし、文も長くなるので、感想だけ書かせていただこうと思います。
まずは一言、辛い。非常に辛い。
私の中に無理矢理仕舞い込んでいた辛い記憶が、一気に掘り起こされました。別に西原サンや石田クンと同じ目あった訳ではもちろんありません。それでも、やっぱり思い出してしまいます。色々と。まあ私の過去なんて書いても仕方ないので、その辺は割愛させて頂きます。
自分で出しておいてなんですが、この「聲の形」、非常に語りづらい作品ですよね。
ヒロインの西原は聾唖が理由で、クラスメイトにいじめを受け、そのいじめの主犯格だった主人公の石田は、先生による弾劾を恐れた仲間達に裏切られ、その仲間達からいじめを受けます。
石田と仲良しだった男子二人(名前は失念しました)は、石田をいじめ倒し、クラスメイトの女子である植野は、西原に対し、無視や陰口と言った女の子特有の嫌がらせをします。
キリがないので、これ以上のキャラクター紹介は割愛しますが、この作品の登場人物たちは、どんな形であれ、「いじめ」という行為に深く関わっています。
半分程度しかキャラクターの名前を挙げませんでしたが、わたしが紹介した彼らを見て、あなたは何を思うでしょうか。
「障害者をいじめるなんてかわいそう!」
「いじめっ子がいじめられるのは当然の報いだ」
「いじめは悪だ」
すごい適当に出しましたが、概ねこんなところではないでしょうか。
その考えは勿論ただしいです。しかしそれを思考は、ひどく汚れた回路からひねり出されたものではないかと私は思います。
障害者やいじめられっ子見て、人々は哀れみ、同情し、その痛みを理解したつもりになります。
健常者やいじめっ子を見て、人々は憤り、批判し、その行動を理解できない風を装います。
私を含め、多くの人はこの感情に覚えがあると思います。そしてこの感情を善か悪で表せば、間違いなく善だと言えるでしょう。
しかしその感情の出所は果たして善なのでしょうか。
その哀れみは、障害者やいじめられっ子を「弱者」と決めつけたがために、わき出てきた感情ではないでしょうか。
その憤りは、健常者やいじめっ子に感じたシンパシーを振り払って、わき出てきた感情ではないでしょうか。
「いじめられっ子よりも私はマシ」だと思うから、上から目線で同情する。「こんな醜いいじめっ子と私は違う」と思いたいから、いじめを批判する。それが私たちのいじめに対する思考の本質であると、私は思います。それは個人差はあるとはいえ、いじめっ子もいじめられっ子も持っている共通事項でしょう。
ちょっときつめに書いた気もしますが、別にこの思考を持つ人を批判したい訳ではありません。これは自己と他者を分析して導いた考えであり、つまるところ、私自身もこの思考を多かれ少なかれ孕んでいる、ということなので。
私が一言もの申したいのは、「『聲の形』泣けるわ~」みたいなことを涼しい顔をして言っている人々なのです。
少し前に海外の方が「感動ポルノ」という言葉を出しました。まあ端的に言えば障害者の方の人生なんかを、健常者が感動するためだけの食い物にするといった感じでしょうか。
日本人はこの「感動ポルノ」が大好物ですよね。有名なのは24時間テレビでやる障害者の方を特集したコーナーとかでしょうか。
こういったものを好物にしている人は、すぐに障害者の人は大変だとか、頑張っている姿に感動したなんて言いますよね。これなんか私が上で述べた、障害者を「弱者」と決めつけ、上から目線で同情する行為そのものでしょう。
繰り返し言いますが、別にこの思考がいけないのではないのです。批判を覚悟して言うと、これは人が持っていて当然の考えだからです。
しかしこの思考に支配されてはいけません。少しでも疑問を持って欲しいのです。考えて欲しいのです。今自分がどういう思考をしているのか、その思考の源泉はどんな感情、理解、認識からきたものなのかを。
「聲の形」も同じです。確かに元いじめっ子といじめられっ子かふれあうのは心温まります。主人公はトラウマを克服するのには感動します。しかし、それで終わりにして欲しくないのです。
「いじめ」という恐らく一生無くならないであろう行為を、私たちが一段高いところから同情をしてしまう障害者の苦しみを、描ききったこの傑作をただの「感動ポルノ」
として消費して欲しくないのです。
袋菓子をむさぼるように、炭酸を飲み干すように、軽い気持ちで作品を、そして物語を消費して欲しくないのです。
これは「聲の形」以外の作品にも言えることです。映画やアニメ、小説は娯楽に過ぎませんが、ただ漫然と消費するのは止めて欲しいと思います。
ちょっと話が広がりすぎて収集がつかなくなってきたので、ここらで筆を置こうと思います。現時点で2320字、長すぎですね。全く要領も得ていなく、我ながら恥ずかしい限りです。
しかし「聲の形」をみてモヤモヤしていた私の思考が、少しは整理出来た気がします。これだけでブログを始めた甲斐がありました。
それでは、ありがとうございました。