魔法つかいプリキュア!
またアニメの話です。しかもプリキュアです。プリキュアはいいぞ。
先日、現在放映しているプリキュアである「魔法つかいプリキュア」の映画を鑑賞しました。
私は子ども向けのアニメが好きなので、プリキュアもよく観ていました。なぜ過去形なのかというと、説明するまでもなく今現在はプリキュアを観ていないからです。
初代のふたプリからずっと応援していたプリキュアシリーズから私が離れてしまった原因、それはずばり「ハピネスチャージプリキュア」の存在でした。
あの作品は、個人的にはとても辛い作品でした。人間関係が非常にドロドロとしたからです。
この作品のウリの一つだった恋愛描写、これが良くなかったのだと思います。私はどこぞのPTAよろしく、アニメキャラに恋愛をさせるなと騒ぐつもりは毛頭無く、むしろ歓迎したいくらいなのですが、この作品の恋愛は私でも眉をひそめてしまいました。
観たのが二年くらい前なので、かなりうろ覚えなのですが、誠司がめぐみに惚れてて、めぐみはブルー様に惚れてて、だけどブルー様はミラージュを想い続けているみたいな感じでしたよね。それでめぐみは失恋をして落ち込んで、めぐみの力になれない誠司は苦悩し、そこを敵につけ込まれたがために操られてしまう後半はそんな流れであった記憶があります。
思い出しながら書いてて思ったのですが、思った以上に人間関係が鬱屈としていますね。確かにふたプリでも恋愛描写はありましたし、それ以降のプリキュアにもちょくちょくでているのですが、ハピチャの恋愛描写はとてもスッキリしないものになっていますね。
その方がリアリティがあるという見方もあるかもしれませんが、プリキュアにそんなものを求める人はあまりいないでしょう。制作者達はその辺のテーマ選び、自分が作っている作品への認識に誤りがあったのではないかと思います。
さて、本題に入らないといけませんね。先ほど述べた通り、ハピチャで心を砕かれた私は、プリキュアの視聴を止めたので、「魔法つかいプリキュア!」も本編を観ていなかったのですが、ある事情で劇場で観る機会に恵まれたので、子ども達が集う劇場におじさんが一人で突入してきました。
そしていざ観るとプリキュアの魂は、まだ健在であることが分かりました。
キャラクターの名前も分からない状態でしたが、初っぱなから主人公のみらいちゃんがキャラクター紹介をしてくれたので、とりあえずは全員を把握することができ、置いてけぼりを食らわずにすみました。ありがとう、みらいちゃん。
特筆すべきは素晴しい演出の数々です。
綿毛を雪に見立てて美しいシークエンスを作り出すといった、美術と作画を巧みに組み合わせた演出は特に印象的で、本編未視聴の私でもみらいとリコの絆の深さがどれだけ深いかが分かりました。
そしてところどころに流れる挿入歌のタイミングも秀逸です。遠くいるモフルンを心配するみらいと、新しい仲間達よりもみらいのことを想うモフルン、その二人を流れ星をバックに(ここの背景の使い方もまた巧い)交互に写し、そこでみらいとモフルンのデュエットを流すことで、二人がお互いをどれだけ想っているかをわかりやすく描写しています。
そして最後のボスとバトルシーン。あれはすごかった。四人のプリキュアが互いを守り、共に攻めながらボスを追い詰めていく。せわしなく代わるフォームにプリキュア達が次から次へと繰り出す技、技、技。恐らくプリキュア四人によるキャラソンであろう歌をバックに戦うプリキュアの姿は、まさに圧巻の一言だった。作画のレベルは現在上映しているアニメーション映画の最高レベルなのではないでしょうか。
感激を隠せぬまま映画が終わり、スタッフロールを眺めていると、監督には田中裕太の文字が。田中裕太氏といえばスマプリのあかねちゃんの初恋回や、れいかさん留学お別れ回を演出した名手ではないですか! プリキュアファンならもちろんご存じだと思います。
まとめますと映画「魔法つかいプリキュア!」は、優れたクリエイターによって作られた子ども向けのアニメです。そういった作品は子どもはもちろん、大人も一緒になって楽しめるものです。これに関してはここで改めて述べる必要はないですよね。
それにしてもまほプリは本当に面白かったです。本編もぜひともこれから見たいと思いますが、DVDと配信だけでなんとかなるものなのか気になるところです。
それではありがとうございました。
聲の形
初っぱなからアニメ映画の話をしようと思います。
今回取り上げさせてもらうのは「聲の形」です。
制作はあの京都アニメーションですね。中学の頃は「涼宮ハルヒ~」や「らき☆すた」、「CLANNAD」などに夢中になったものです。今の子は「free」や「境界の彼方」などの方がイメージとしては強いのでしょうか。私はいずれも未視聴なのですが。
「君の名は」の大ヒットでアニメ特需的な現象が起こっているのでしょうか。私が赴いた劇場では、半分が中年のおじさんやおばさん、もう半分は若いカップル達といった具合でした。率直な感想を申しますと、アニメに縁がなさそうな中年層や、いわゆる「リア充」に分類されるあろう若者達が、多くを占めていることに驚きを隠せませんでした。
あらすじなんかを書くと、それだけで大分辟易してしまいますし、文も長くなるので、感想だけ書かせていただこうと思います。
まずは一言、辛い。非常に辛い。
私の中に無理矢理仕舞い込んでいた辛い記憶が、一気に掘り起こされました。別に西原サンや石田クンと同じ目あった訳ではもちろんありません。それでも、やっぱり思い出してしまいます。色々と。まあ私の過去なんて書いても仕方ないので、その辺は割愛させて頂きます。
自分で出しておいてなんですが、この「聲の形」、非常に語りづらい作品ですよね。
ヒロインの西原は聾唖が理由で、クラスメイトにいじめを受け、そのいじめの主犯格だった主人公の石田は、先生による弾劾を恐れた仲間達に裏切られ、その仲間達からいじめを受けます。
石田と仲良しだった男子二人(名前は失念しました)は、石田をいじめ倒し、クラスメイトの女子である植野は、西原に対し、無視や陰口と言った女の子特有の嫌がらせをします。
キリがないので、これ以上のキャラクター紹介は割愛しますが、この作品の登場人物たちは、どんな形であれ、「いじめ」という行為に深く関わっています。
半分程度しかキャラクターの名前を挙げませんでしたが、わたしが紹介した彼らを見て、あなたは何を思うでしょうか。
「障害者をいじめるなんてかわいそう!」
「いじめっ子がいじめられるのは当然の報いだ」
「いじめは悪だ」
すごい適当に出しましたが、概ねこんなところではないでしょうか。
その考えは勿論ただしいです。しかしそれを思考は、ひどく汚れた回路からひねり出されたものではないかと私は思います。
障害者やいじめられっ子見て、人々は哀れみ、同情し、その痛みを理解したつもりになります。
健常者やいじめっ子を見て、人々は憤り、批判し、その行動を理解できない風を装います。
私を含め、多くの人はこの感情に覚えがあると思います。そしてこの感情を善か悪で表せば、間違いなく善だと言えるでしょう。
しかしその感情の出所は果たして善なのでしょうか。
その哀れみは、障害者やいじめられっ子を「弱者」と決めつけたがために、わき出てきた感情ではないでしょうか。
その憤りは、健常者やいじめっ子に感じたシンパシーを振り払って、わき出てきた感情ではないでしょうか。
「いじめられっ子よりも私はマシ」だと思うから、上から目線で同情する。「こんな醜いいじめっ子と私は違う」と思いたいから、いじめを批判する。それが私たちのいじめに対する思考の本質であると、私は思います。それは個人差はあるとはいえ、いじめっ子もいじめられっ子も持っている共通事項でしょう。
ちょっときつめに書いた気もしますが、別にこの思考を持つ人を批判したい訳ではありません。これは自己と他者を分析して導いた考えであり、つまるところ、私自身もこの思考を多かれ少なかれ孕んでいる、ということなので。
私が一言もの申したいのは、「『聲の形』泣けるわ~」みたいなことを涼しい顔をして言っている人々なのです。
少し前に海外の方が「感動ポルノ」という言葉を出しました。まあ端的に言えば障害者の方の人生なんかを、健常者が感動するためだけの食い物にするといった感じでしょうか。
日本人はこの「感動ポルノ」が大好物ですよね。有名なのは24時間テレビでやる障害者の方を特集したコーナーとかでしょうか。
こういったものを好物にしている人は、すぐに障害者の人は大変だとか、頑張っている姿に感動したなんて言いますよね。これなんか私が上で述べた、障害者を「弱者」と決めつけ、上から目線で同情する行為そのものでしょう。
繰り返し言いますが、別にこの思考がいけないのではないのです。批判を覚悟して言うと、これは人が持っていて当然の考えだからです。
しかしこの思考に支配されてはいけません。少しでも疑問を持って欲しいのです。考えて欲しいのです。今自分がどういう思考をしているのか、その思考の源泉はどんな感情、理解、認識からきたものなのかを。
「聲の形」も同じです。確かに元いじめっ子といじめられっ子かふれあうのは心温まります。主人公はトラウマを克服するのには感動します。しかし、それで終わりにして欲しくないのです。
「いじめ」という恐らく一生無くならないであろう行為を、私たちが一段高いところから同情をしてしまう障害者の苦しみを、描ききったこの傑作をただの「感動ポルノ」
として消費して欲しくないのです。
袋菓子をむさぼるように、炭酸を飲み干すように、軽い気持ちで作品を、そして物語を消費して欲しくないのです。
これは「聲の形」以外の作品にも言えることです。映画やアニメ、小説は娯楽に過ぎませんが、ただ漫然と消費するのは止めて欲しいと思います。
ちょっと話が広がりすぎて収集がつかなくなってきたので、ここらで筆を置こうと思います。現時点で2320字、長すぎですね。全く要領も得ていなく、我ながら恥ずかしい限りです。
しかし「聲の形」をみてモヤモヤしていた私の思考が、少しは整理出来た気がします。これだけでブログを始めた甲斐がありました。
それでは、ありがとうございました。
よろしくお願いします。
ブログを作りました。実は二回目のブログ開設です。最初のブログは2、3件更新してから辞めてしまいました。基本的に三日坊主なので、正直に申しますと、このブログも続けられるか危ういです。しかし気負いすぎると、以前のように億劫になってしまいサボり癖が現出するので、気楽にやっていこうと思います。
少しだけ、自己紹介をさせていただきます。
自己紹介、とはいったものの、私はパソコンには疎く、今までにハンドルネームを持つことも無かったので、名前すらまだ決めていません。
しかし名前がないとどうしようもないので、とりあえず現時点では「黒川」と名乗ろうかなと考えています。私の尊敬する映画監督である、黒澤明と市川崑から人文字づつ名前を拝借させてもらいました。次の日にはもう変わっている可能性は大いにあります。
職業、といっていいものか分からないですが、一応大学生をやっています。現在四年生、来年にはもう就職です。
趣味は映画やアニメ鑑賞、読書、サイクリング、バイクなどでしょうか。この辺の詳細は別の場で書ければと考えています。
名前、職業、趣味。このくらい書けば十分なのでしょうか。如何せん素人なので、どこまで書けばいいのやら全く分かりませんが、とりあえず自己紹介はこのくらいにしておきます。
ここまででお分かりだと思いますが、私の文章は冗長で脈略のないものです。推敲も全くせず、感じるがまま書いています。大変見苦しいかもしれないですが、軽すぎる文章もあまり好まないので、ご容赦いただければと思います。
それでは次の投稿から、このブログ開設の目的であった映画の感想を書いていきたいと思います。
ありがとうございました。